西村
加藤さんは、長くアメリカで生活していて、英語の会話と日本語に会話で、どういうところが最も違うと思いますか。
加藤
日本語で「あなたはたばこは吸いませんか?」と聞かれたとき、もし吸っているなら「いいえ,吸います。」すなわち「No」と答え、もし吸っていなければ「はい、吸いません」すなわち「Yes」と答えるでしょう。日本語の場合は質問した人に賛成なら「はい」、反対なら「いいえ」です。尋ねた人を中心におく答え方です。英語は答える立場中心ですから、聞かれた方に関わらず、吸わないなら「No, I don’t smoke」、吸うのなら「Yes, I smoke」です。
西村
確かに、この点は英語と日本語の違いでも、面白い点ですね。英語で答えるとき、相手が、「Do you・・・」あるいは、「Don’t you・・・」で聞いてくると、それに合わせれば、混乱はしませんが。
加藤
しかし、アメリカでもミスをして答える人もいます。ここ米国でも英語を正しく話せたり、書いたりできる人(特に若い人たち、大学生も含めて)が減ってきています。ましてや、エレガントかつ魅力的に話せる人はほとんどいない。一つには、文法を正しく知らない人が多いのが原因でしょう。ちなみに、映画では「Pride and Prejudice」(BBC 2001年制作)の英語の会話は、レベルの高い英語です。それと米国でも、40年以上前はどの州でもやっていたと思うのですが、国語である英語のPhonics(フォニックス)すなわち発音、声音学のレッスンをやらなくなったことにも原因があるのでしょう。息子が小学生のときに、フォニックスのプライベートなレッスンを2年くらいとったのですが、それを聞いていて、気のついたことは、英語というものはこんなに豊かなルールがあって、例外が少ないかということです。
西村
英語と日本語で文章を書いて思うのは、日本語に較べると、英語の方がずっと論理的であるということです。
加藤
米国でも同じことですが、いわゆるソフト教育(soft education)、それを日本では、ゆとり教育というらしいのですが、それをやめて、ハード(hard)教育にして正道で伝統的なガッチリとした教育に戻れば、正しく話しかつ書くことができ、味のある会話のできる人も増えましょう。ソフト数学(soft math)やソフト英語(日本では「ゆとり教育」のことですが)を、社会が受け入れてゆくのは一つの「裕福病」なのかもしれません。こうして、裕福な国が衰え、貧しい国がハード教育で立ち上がってくるというのが歴史なのかもしれません。
西村
裕福な国になったのは、多くの先人の努力のおかげなのですが、それを自分の力だと勘違いする人が「ゆとり」を他人に押し付け始めるのでしょうね。
加藤
「ゆとり何とか」というのはどちらにしたって60、70才を過ぎた、退職した人達の人生に対する構えでしょう。若い人達には、その反対の「バリバリ教育」が向いているのだと思います。
西村
人生を経験した後の大人が、これから人生を経験しようとする子供に対して、予め、自分の反省点をふまえて何かを子供に押し付けることが、そもそも無理なのだと思います。
加藤
もっとも、自己満足している若者もおろかですが、自己満足していない年配者もさみしいものです。男性なら、正しい美しい国語(英語でも日本語でも)が話せ、会話の内容がわくわくするようなものであり、女性から「あなたと話していると、青春が戻ってきたような気がいたします」なんて言われてみたいでしょう。私ならそう思う。
西村
現在の日本の文化人の中には、英語は国語を身につけてから学ばないと、日本人としての基礎ができないという人が多くいます。加藤さんは、これについてはどう思いますか。
加藤
ヨーロッパでは、小学校一年で英語を教えている国にスウェーデンがあります。ヨーロッパの国々で英語のうまい、すなわち発音も正しく、自由に自己表現できるのは北欧のスウェーデンとノルウェー、そしてデンマークも入るでしょう。しかし、北欧の私の友や出会った人々は、アイデンティティ(identity)をしっかり持ち、スウェーデン人ならスウェーデン人としての考えを一人一人持っているようです。スウェーデンの人は、自国のことを良く知っていて、スウェーデン人であることを幸いと思っているように思われます。小学校で英語を始めて、スウェーデン人であるということは、少しもぐらついているようには思えません。
西村
それは、そうですね。
加藤
逆に小学校で(21世紀の国際語の)英語を学び始めて、自分のアイデンティティがぐらつくようでは、他に何かもっと深刻な問題がその国にあるのでしょう。19世紀以前のヨーロッパでは、ラテン語やギリシャ語が今の英語よりも幅をきかせていました。しかし、例えば、数学者のオイラー、そしてニュートンやライプニッツが、ローマ(イタリア)やギリシャに心を奪われていたとは思われない。そのときそのときで国際語がラテン語であったりドイツ語になったり、英語になったりするわけです。100年後には、中国語が今の英語に取って代わるかもしれないし、もし、運がよければ日本語になるかもしれません。 表現手段としての言葉が自由に正しく使えないのは、一つのハンディとなりかねません。そんな時に、英語にしても数学にしても文学、芸術にしても前向きに立ち向かう必要があります。ゆとり教育なんかしているときではないと思う。
日本には、石油はゼロに近いし、鉄鉱もあまりない(セメントはあるらしい)。日本の一番豊かな自然資源とは、日本人の持つDNA、すなわち日本人の大脳ではないでしょうか。ではこの優れたDNAを、どのように栽培し、どのように収穫したらよいのかそれが問題です。
日本のように、いわゆるnationのもともとの定義に近い国は、少なくなってきていると思います。日本の最大自然資源でありましょうDNAから大いに収穫し、日本の科学、文学、経済、芸術・・・をしっかりとしたものにするには、しっかりとした教育が、その基礎でしょう。